古い日記

日記は書いた端から古くなる。

「異例」という言葉は、失礼以外のなにものでもない。

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23歳の朝比奈は東京・渋谷教育渋谷高時代に東海大の医学部を受験したものの通らず、体育学部に入学。卒業後も予備校に通うなど対策を続けていた。

とあるように、ちゃんと高校の時から医師になるという明確な目標を立て、大学進学後も時間をかけて準備した、その結果が出たというだけである。

「異例」という言葉を使うということは、その裏に、柔道家だから、あるいは体育学部だから医師になるはずがないという先入観があるということだ。おそらくこの言葉を使った記者もそうだし読む私たちもそう。ともすれば「女の子なのにすごいね」なんて言う人だっている。私たちは、そんな先入観を持っていることすら気づかないまま日常を過ごしている。この件に限らず、気づかない先入観というのはたぶん日常の至るところに存在するのだろうと改めて感じた次第。

日常つながりで、ク・ビョンモ『四隣人の食卓』(小山内園子訳 書肆侃侃房)のことを少し。

これは、都心にギリギリ通勤圏内の田舎に建てられた共同住宅に、「子供を3人産み育てる」ことを条件に入居してきた四組の家族の日常を描いた小説である。職業やバックグラウンドは違えど同じ子育て世代ということもあって、お互い協力し合って暮らしていこうと、共同生活体を形成すべく努力する四組の家族。その暮らしが少しずつ軋みを生じていく様子を、四家族それぞれの視点(特に妻の目線)から描いている。

ここで描かれるのは日常におけるなにげない行為や言葉の怖ろしさだ。

誰かの行動や発言に感じた嫌悪を覚えることは誰にでもある。そしてそれを内にしまい込んで我慢することも。自分で我慢の限界を設定し、限界に達したら達したで、それをもっと先に設定し直し、辛抱に辛抱を重ねて気づいた時には何もかもボロボロになってしまって、取り返しのつかないことになる。そういう経験をしている人が、私たちの身の回りにもたくさんいる。なぜ彼らは声を上げることができないのか。そのことが、本書を読むことで少しだけ理解できたような気がする。

私のなにげない言動が、誰かを限界まで追い込んでしまうかもしれない。それは怖い。だからもう何も喋らず、何もしないほうがいい、というのではなく、たとえなにげない日常の出来事であれ、自分の言動には最後まで責任を持つという姿勢が大切なのだ。

「異例」という言葉に、朝比奈選手が傷ついたかどうかは知らない。だが、この記事を読んで違和感を覚えた人、あるいは傷ついた人がいることは間違いない。あまりにも自然に、見過ごされてしまいそうなほど自然に使われる言葉だからこそ、慎重に、また丁寧に用いなければならないのだということを、もう一度心すべきだと思う。