古い日記

日記は書いた端から古くなる。

もう2年前くらいの話。中洲川端界隈のある立ち呑み屋で飲んでいると、店を覗いていた外国人客に向かって店員が「ジャパニーズオンリー!」と言って入店させなかったという場面に出くわしたことがある。

入る時はまったく気づかなかったのだが、入り口には確かに「外国人お断り」の貼り紙があった。なんでこんなことを? と外国人客を”追い返した”雇われ店長っぽい店員に聞くと、とにかく○○人はマナーがなってないんですよ、食べこぼしや飲みこぼしは多いし持ち込みも平気でするし……と、特定の国名を挙げて文句を言いだした。マナーの悪い客に対して文句を言いたくなる気持ちは理解できるけれど、それは差別感情でしょう? という指摘はできなかった。彼の頑なな拒否の姿勢を見ていて、これほどナチュラルに差別できるのかと呆気にとられたからである。彼自身、自分の差別感情には気づいてないのかもしれないとさえ感じた。

たぶんその時の私の行動としては、「それは差別だよ」と指摘するのが正解なんだろうと思う。でも一方で、《こういう人に理を説くのは難しいよなあ》という感情もある。いやまあ指摘するのはかんたんなのだが、たぶんぜったい納得することはないと思うのである。そういう難しさ。楽しく酒を飲んでいる時にそんな話で場の雰囲気を悪くしてしまうのも気が引けて、結局はもやっとした感情を酒といっしょに腹の中に収めて帰宅することになるのである。

researchmap.jp

ここで取り上げられている大学職員の差別発言については、先週末くらいにTwitterで見かけていたのだが、一連のツイートを見る限り、上に書いた立ち呑み屋の店員とまったく同じなのではないかと思っている。本人はまったくそんな気はなくさらっと話していることなのだが、周りからすればまるで呼吸するのと変わらないような調子で差別発言をしているように感じてしまうのである。ナチュラルな差別意識ですね。

当たり前のようにこれらのツイートは炎上し、いろんな人から非難が向けられ、大学からも公式な見解(とお詫び)が出るに至って、当人もおそらく「これは大変なことになった」と思ってはいるだろうが、だからといって差別感情がなくなるというわけではけっしてない。どれだけ非難が向けられても、自分の差別感情について省みることはないのだろうから、謝罪するとしても最近よく目にする「不快に思わせたのであれば謝罪します」という、まるで意味のないものになるだろう(件の人が謝罪したかどうかは知らないけれど)。

こういうことを見るにつけ、差別意識を根本的に絶やしてしまうのは、たぶん無理なんだろうと思う。私たちは誰もが差別の意識を持っている。そしてあらゆる差別はなくすべきである。まずそのように認識するところから始めなければ、本当に差別がなくなるということはないのではないか。そんなことを考えているのである。

件の立ち呑み屋、今はオーナーが変わったかなにかで「外国人の方大歓迎」になっているようである。どこの国の人も気軽に飲みに行きましょう。

ホテルニューオータニは怒るべきである。

このごろニュースなどで取り沙汰されている「桜を見る会」について、《いったいなにが問題なの?》と感じている人には、以下の記事を読むことをお勧めしておく。

webronza.asahi.com

桜を見る会とその前日の食事会について、首相の説明から「推定される事実関係」について検証した記事である。筋道立てて書かれているし、首相の説明が如何に危ういものかということもよくわかる。

《800人もの出席者がいるパーティー》を《ニューオータニ》で開催することは普通にあることだと思うが、これが《1人当たり5000円》で開催できるのか、となるといかな素人であっても「?」と思うだろう。今日日地方のそれほど格式高くもないホテルでパーティーをやろうとしても、まず7000~8000円は下らないのである。しかも領収書に絡んだ話となると、もうなんというか商取引の慣習からはありえない対応をニューオータニがやった、ということを首相は述べていて、そんなもんニューオータニに確認取ればはっきりするじゃん、とこれまた素人ですら思うところである。

というところで以下の記事。

www3.nhk.or.jp

一般的に、首相が説明したような(論座の記事にあるような)ことをホテル側がするのか、ということについていくつかのホテルに聞いたという記事。ニューオータニ以外の5つのホテルは揃って「ありえない」という回答のようである。肝心のニューオータニからは「一概には申し上げられません」という回答。

不思議なのはなんでニューオータニがこんな奥歯にものの挟まったような回答をするのかということ。首相が言ってるのは「ニューオータニは一般通念では考えられないような対応をするようなホテルなんですよ」という、ホテルの信用を著しく傷つける発言であって、だとしたらニューオータニ側にお茶を濁す理由などなにもないからである。

それが「一概には申し上げられません」では、ホテル側にも隠さないといけない《何か》があるのでは? と勘ぐられても仕方がない。自らの信用を失ってまで守ろうとするものが何なのか……なんか本当にいろいろとヤバい状況に、日本はなってしまっているのではないかと思う次第である。

慌ただしかった週末の記録を少し。

土曜はこちらのイベントに参加してきた。本当はその前日の読書会にも出たかったのだが所用があって断念。このトークイベントも仕事絡みの講習会と重なって間に合うかどうかわからなかったのだが、なんとか頭から参加できたのであった。奇跡。

『四隣人の食卓』については、前回の記事に書かなかったが気になっていたことがあった。四家族それぞれの「妻」の視点で描かれた4人の「夫」はどいつもこいつもダメ男なんだけど、セリフの端々に「あー俺も言ってるかも……」というところがちょこちょこ出てくる。1mmも共感できないのに、なぜか自分のことのように感じてしまうこの絶妙なさじ加減の造形は、いったいどこまで狙ったものだったのか。それを聞いてみたかった。で、聞いた。

夫をモデルにしたのではない、という答えには笑いも起こっていたが、基本的に「ありえない」人として描いたということらしい。他にもいろいろ話してもらったのだが忘れちゃったよ鳥頭だから。

トークイベントの全体的な印象としては、深緑野分さんのリードもよく、終始なごやかな雰囲気だったなあと。ただちょっと暑かったかな。知り合いも何人か来ていたので少し話をして、あとク・ビョンモさんにサインもいただいて帰宅した。

「異例」という言葉は、失礼以外のなにものでもない。

this.kiji.is

23歳の朝比奈は東京・渋谷教育渋谷高時代に東海大の医学部を受験したものの通らず、体育学部に入学。卒業後も予備校に通うなど対策を続けていた。

とあるように、ちゃんと高校の時から医師になるという明確な目標を立て、大学進学後も時間をかけて準備した、その結果が出たというだけである。

「異例」という言葉を使うということは、その裏に、柔道家だから、あるいは体育学部だから医師になるはずがないという先入観があるということだ。おそらくこの言葉を使った記者もそうだし読む私たちもそう。ともすれば「女の子なのにすごいね」なんて言う人だっている。私たちは、そんな先入観を持っていることすら気づかないまま日常を過ごしている。この件に限らず、気づかない先入観というのはたぶん日常の至るところに存在するのだろうと改めて感じた次第。

日常つながりで、ク・ビョンモ『四隣人の食卓』(小山内園子訳 書肆侃侃房)のことを少し。

これは、都心にギリギリ通勤圏内の田舎に建てられた共同住宅に、「子供を3人産み育てる」ことを条件に入居してきた四組の家族の日常を描いた小説である。職業やバックグラウンドは違えど同じ子育て世代ということもあって、お互い協力し合って暮らしていこうと、共同生活体を形成すべく努力する四組の家族。その暮らしが少しずつ軋みを生じていく様子を、四家族それぞれの視点(特に妻の目線)から描いている。

ここで描かれるのは日常におけるなにげない行為や言葉の怖ろしさだ。

誰かの行動や発言に感じた嫌悪を覚えることは誰にでもある。そしてそれを内にしまい込んで我慢することも。自分で我慢の限界を設定し、限界に達したら達したで、それをもっと先に設定し直し、辛抱に辛抱を重ねて気づいた時には何もかもボロボロになってしまって、取り返しのつかないことになる。そういう経験をしている人が、私たちの身の回りにもたくさんいる。なぜ彼らは声を上げることができないのか。そのことが、本書を読むことで少しだけ理解できたような気がする。

私のなにげない言動が、誰かを限界まで追い込んでしまうかもしれない。それは怖い。だからもう何も喋らず、何もしないほうがいい、というのではなく、たとえなにげない日常の出来事であれ、自分の言動には最後まで責任を持つという姿勢が大切なのだ。

「異例」という言葉に、朝比奈選手が傷ついたかどうかは知らない。だが、この記事を読んで違和感を覚えた人、あるいは傷ついた人がいることは間違いない。あまりにも自然に、見過ごされてしまいそうなほど自然に使われる言葉だからこそ、慎重に、また丁寧に用いなければならないのだということを、もう一度心すべきだと思う。

数年ぶりに天婦羅処ひらおに行ったので画像掲載のテストをかねて。

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付け合せに焼きなす(?)は初めて見た。これがけっこう旨かった。烏賊の塩辛は言うまでもなく。

先日、文フリ福岡を訪ねたのだが、ああいう本を作る人たちの熱量を目の当たりにすると自分でもなにかやりたくなってくる。ということで来年に向けてネタを思案中。

ローマ教皇フランシスコが来日するという。11月23~26日の間、長崎や広島などを訪問する予定だというが、これに関連して気になる記事を見つけた。

www.asahi.com

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この高校は過去40年にわたって修学旅行で広島を訪問、語り部の話を聞くなどして平和学習を続けているとのこと。また、《東日本大震災で被災した岩手の高校生にとって、大勢の命が失われた出来事に思いをはせるのは特に重要な行事です》との校長の言葉からもわかるとおり、震災以降は、平和について考えるだけではなく、よりダイレクトに命について考える機会になっているようである。

それが、教皇の訪問という行事によって中止を余儀なくされる。上の投書にも書かれているように、まさか教皇がそれを望んでいたとは思えない。中止を決めたのがどこなのかはわからないが、おそらくは日本側(広島市カトリック中央協議会か)の判断であろう。まあ最終的には、修学旅行生たちは教皇が出席する平和の集いに参列することが可能になったわけだが、この出来事は日本におけるキリスト教(というよりも宗教全般)の扱いを如実にあらわしている出来事だったと言えるだろう。

いまの日本において、宗教のプライオリティはものすごく低い。というかあからさまな嫌悪感を表明する人も少なくない。そんな中、教皇の来日に警備体制を強化するというのは当然とはいえそのことによって、修学旅行生らの宗教的行事(平和について考える時、あるいは死者に思いを馳せる時、そこには必ず祈りがある)を犠牲にしてもよいと判断したということがそれを示唆している。キリスト教国では同じような対応を取るだろうか。

キリスト者としては大変憂慮すべきところではあるが、一方で、日本において宗教の必要性を説くことの難しさも痛感している。

38年ぶりとなる教皇の来日。これがどのような意味を持つのか。ふだん宗教とは無縁だと思っている人にこそ考えてもらいたいと願っている。

webronza.asahi.com